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言語化能力の鍛え方とは?思考をネット上に具現化することの効用【ギボンヌのブログ】

実験

こんにちは。ギボンヌです。

今回は言語化能力の鍛え方と思考をネット上に具現化することの効用についてかいてみようと思う。

鍛え方、というと語弊がある。

言語化能力を鍛えたい人は多いだろうが、むしろそことは違う視点の話になる。

言語化能力が何のために必要だと思うのか?というところから考えようと思う。

私は鍛えようと思ったことはないけど、思考をネット上に具現化することにはいろんな効用があった。

そんなことについて書いてみたいと思う。

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言語化能力の鍛え方とは?

私にとってネットで自分の言葉を発することはかつてはデトックスであり、治療であり、癒しだった。

言葉にすることは思考を具現化して、自分の目に再びいれることになる。

それによって整理されて分解されて手放していける。

人の目に晒される可能性のある場に言葉にしていくことは、(誰もみてなくてもよい)自分を「純化」していく作業だ。

嘘っぽい皮を一枚一枚剥がしていく。

だから、「鍛え方」というよりは、余計なものを外すことだと思っている。

言語化能力を鍛える方法、というよりは、そんな小手先のスキルより大切なことがあるのだ。

ネット上に自分の思考を開けっ広げに陳列して外界に触れさせたことで「自分」というものを知ることのほうが、「伝わる言葉」にしていくためにはパワフルだと思っている。

言葉に生身の力がないと伝わらない。

それは薄っぺらいからだ。

軽いからだ。

嘘っぽいからだ。

伝わる言葉はスキルだけではできないのだ。

思考をネット上に具現化し陳列してみる

思考を具現化してネット上に陳列することをやりだすと、最初はどこか嘘っぽい文章になったりする。

「言語化する」ことが、日常に馴染んでいないからだ。

特別なこととして文章にすると嘘ぽくなる。

しかし、言葉にしているうちに嘘っぽさが気持ち悪くなるし、繕うことにも疲れてくるから、自然に「自分」の言葉になってゆく。

息をすうように、息をはくように、言語化していく。

10年も言葉にしてればそんなふうになってきた。

「自分」の純化には時間がかかる。

思考をネット上に具現化することの効用

今は、嘘っぽさがなくなってきて、デトックスや治療や癒しではなく「記録」として言葉にしている。

私は記憶力が無いから「記録」が必要だ。

過ぎたときの自分を思い出せる引き出しになっている。

自分のその時の「言葉」を記録する。

何年も経って読むと、自分が取り繕っていたことや、無理があったことが、その時の文章から見て取れる。

より「自分」になってくるからだ。

過去の自分も「自分」だが…。

とても読んでいて薄寒い言葉に居心地が悪くなることもあるし、全く変わっていなくて貫いていることもある。

しかし、それだけではなかった。

この自分のためにやってきた、「ネット上での思考の具現化(言語化)の訓練」は、最近になってすごい効果があることに気づいた。

人との「距離」と「時間」を超えていくことができるのだ。

私という人間を晒し続けることなんて、とても小さな行いで、そんなことをやっても無駄なことのようだ。

しかし、見るともなしに、読むともなしに、誰かがみていたりする。

会ったこともない遠くの人と、瞬時に繋がったりする。

「この人は心地が良いな」

と感じる人に出会ったり、共感しあえる人に出会ったりする確率が急激にあがる。

私が「凄い」と思ってる人や、「尊敬している人」が、私の存在に気づいてくれることもある。

そこに距離も、年齢も、性別も、時間も関係はない。

私がそういう人と縁を持たせてもらえるのは、おそらく自分の思考をさらけ出して言葉にしてきたからだと最近は思う。

出会う前に自己紹介が済んでいる感じになっているのだ。

薄寒い言葉を発していた時の私の周りを見れば、その波長ととても合っていることがわかる。

今の自分の波長に合った人と出会っている。 

今の波長は「自分」を純化してきたもので、自分が自分として心地よい波長だ。

不思議と、自分か気持ち良いと感じる人ばかりと出会っている。

自分を取り巻く世界は、「自分」の鏡なのだということはよく言うが、実際にみてみると、本当に自分が発した「言葉」や「波長」によって世界ができていることがわかる。

言語化してみること

実は言語化能力を鍛えることは重要なことではない。

言葉を使って法律の話をするとか、正式な文章を書く仕事をするとか、文法的な正確さが必要な業種でなければ。

  

言語化能力を鍛えることが、「伝わる言葉」を書くためなら、テクニックだけではもったいない。

伝わる言葉は、純粋でしなやかで芯のある言葉だと思っている。

嘘や、取り繕った言葉は、表面的にしか届かない。

「自分の言葉」を出すには少し訓練が必要だと思っている。

間違えていようが、分かってなかろうが、お構いなしにペラペラ言葉にしてしまう。

そう感じてるんだから仕方ない、と。

主観を書く。

主語は「私」だけ。

自分に嘘がないことを発するようにする。

ちなみに、世の中は嘘か本当かわからないことだらけだ。

たとえ、研究結果として出たものであれ、それが事実かなんてわからない。

エビデンスなんて信用ならない。

アポロが月に行ったのかもホントのところはわからない。

でも、主観はその人にとっては事実だ。

アポロが月にいった映像をみて私が感じたことは、主観的事実なのだ。

取り繕わない。

例えば、ネット上に顔や名前を出していることもそうだ。

顔をださないなら、出さないことが揺らがない真実ならそれでいいと思うし、ハンドルネームがイコール自分であるならそれでいい。

ギボンヌはイコール私だ。

嶋谷敦子よりむしろイコールな気がするくらい私になっている。

SNSに投稿する写真をあまり綺麗にしない、とかも考えている。

完璧すぎない私そのものを嘘なく出すことで、この人間を信頼できるかをはかってもらえる。

さらけ出して、相手が自分に関心を持つことがないなら縁もおこらないのだ。

伝わるということは、表面的ではない。

テクニックだけでは追いつけないものがある。

リアルに会って話をすることが1番濃いと思われることも多いけれど。

言葉は電波にのっていても伝わっていく。

言葉も写真も表現も取り繕うことは出来ず、その人がそのまま表れてしまう。

写真の加工技術が豊富になってきても尚、だ。

どんなにカッコつけても、透けてみえてしまうものである。

繕って写真を撮ったなら、その人の顔の筋肉の不自然さは写真に表れるし、ファッションというものですら、違和感は臭いとして伝わる。

私はカッコつけたり、分かったフリをしてきた頃があった(無自覚的にだった)から、それが今や不要のことであることに気づいた。

その時の自分のままの言葉を発すると、そのまま鏡のように返ってくる。

返ってくるものをみれば今の自分がわかるのだ。

ネットで言葉を発しだしてすぐの頃は、誰も私の言葉など読まないという時期を経る。

それから、人に読まれてリアクションされる経験を経る。

読まれないから書けたのに、読まれるとかきにくくなることもあったりする。

けれど、読まれないことをさみしく感じたりするもので。

読まれようとしてみたり、無意識にする。

ある日、読まれるようになったら、実はそれが腐敗を帯びて、群がる蟲さんたちだったこととか。

なにが自分によってきているか?

自分の環境は自分で作っている。

心地よい環境を生むのは自分のコトバからだ。

かと言って、私は「ポジティブ」なコトバが良いとは思っていない。

嘘っぽいポジティブな耳障りのいいコトバを発してみれば、何が群がるか?も確かめることができる。

ポジティブなコトバを並べることで、商品を売ろうとする人たちからの「いいね」が集まったりする。

そういう人たちは、ポジティブに向かわせるために、ネガティブを掘り起こしてこちらに見せようとする言葉を陳列している。

現象をみるのはわかりやすい。

不足がないとコンテンツは売れないから。

そのくらい、自分に群がるものをみていくと自分の状態はわかるものである。

実は土作りとか、自然を観察していると同じようになっていたりする。

おわりに

「思考を言語化してネット上に陳列する」

という誰にでもできる小さな試みは、ずっと続けて観察してみることでみえてくるものがある。

私はこれを「ネットサーフィン」と呼んでいて。

「潮目が見える」という感覚も得る。

見えないけど見える。

なんでも続けてみることだなと思う。

言語化能力を鍛えるのは、小手先ではない。

自分自身を見ることだ。

自分が何者かを問うことになると思っている。

何者かがわからない人の話を誰が信用して聞こうとするだろう?

思っていることを言語化してみよう。

こんな小さなことをやるだけで、大きな学びがある。

今はとても良い時代なのだ。

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